実務と研究の大きな壁。時に見過ごされがちな、注目を浴びる大きな課題の周辺にある別の課題を可視化し、解決策を探るためには、その壁を乗り越えることが有効なようです。そんな視点と経験を持つ方々にお集まりいただきました。
(トヨタ財団プログラムオフィサー 利根英夫)
※本ページの内容は広報誌『JOINT』に載せきれなかった情報を追加した拡大版です。
実践と研究の間を行き来する
自己紹介
キハラハント 東京大学のキハラハント愛と申します。人権高等弁務官事務所(UN-OHCHR)を始めとする国連機関に20年ほどおり、そちらとの共同プロジェクトを通じてニーズが出てきたので、ネットワーク形成をとても重視しているこのプロジェクトを始めました。
コロナ禍のときにアジアにおいて、コロナにかからないことを優先したために、いろいろな人権が制限されてしまいました。いつもなら守ることができるような人権でも、コロナという喫緊の問題によって後回しにされてしまったということがあったのですが、その人権が守られていないところのギャップを埋めたのが民間なのではないかというところを追求してみたいなと思いました。
民間と言ってもいろいろなアクターがいて、元々人道援助をしている団体、人権団体もしくは市民社会と言われるようなNGOなどがそれぞれの立場で活動するというのは、もちろんそれも人権を守っているので、そのようなアクターも非常に重要なのですが、コロナ禍で気がついたのが、いつもはあまり人権ということを言っていなかったりするようなアクターが次々と入り込んできて、たくさんの人たちの人権を守っていたということです。それを目的としてやっていたかどうかは別として、結果的にそういうことをやっていたのではないかということに非常に興味を覚えました。
そこで、民間による人権ベストプラクティスについて研究し、相互学習をして、ネットワークとして形成していけたらと思い、このプロジェクトはそれを横断するような構成になっています。
この助成プロジェクトの前に自発的にやっていたプロジェクトがあり、そちらはUN-OHCHRでコロナ禍のときにどのように人権が擁護されていたかということをクラウドソーシングで調べるものでした。クラウドソーシングというのは、こんな国でこんなプロジェクトがあるよとか、こんなおもしろいアクターがこんなことをやっているといったような情報を、各国のパートナーとなる機関や個人がそれぞれウェブサイト上に情報を入れていき、どのようなベストプラクティスがあったかというのを見ていくものです。そこから分かったのは、個人の脆弱性には多様性があるということ、非常に後回しにされている人権と優先されている人権があるということ。それから人権擁護の方法として新しい画期的な多様な方法、多様なアクターが関わっているということです。クラウドソーシングにたくさん集まったベストプラクティスの中から特に着眼したかったのが、アジアです。アジア地域にはある程度の文化的な基盤や、コミュニティのあり方、それから国と人との繋がりの仕方、その辺りに共通点があるのではないかという前提に基づき、プロジェクトの開始時点でアジアの六つのプロジェクトパートナーを選びました。
それぞれ簡単にご紹介しますと、シンガポールは自発的に移民についてやっている自助団体のようなところで、フィリピンはもっとでき上がっている人道援助のネットワークです。タイのパートナーは個人の方で、マスクが不足していた時、どこでマスクを買えるかというのを可視化したプログラムを作った技術者です。インドのパートナーは学生の団体で、インドのコロナ患者の中でも脆弱な人たち、特にマイノリティの方たちの生活を援助していこうというようなことをしたところ、インドネシアは小学校の先生たちのイニシアティブ、日本は上智大学の学生団体で難民支援をしているところです。
プロジェクトでは、まず六つのパートナーからどのような経緯で今に至るかについて丁寧に聞き取りをしたあと、もっとこういった点を他の団体から学びたいとか、専門家からこういうところを聞きたいというようなニーズの聞き取りもして、この部分は大体終わりました。六つのパートナーと同時にワークショップをして相互学習をする中でわかったことや、経験を話し合ったりするのは一度やってみましたが、それぞれの活動内容があまりにも違うため、もう少し似たようなパートナーを違う国から探してほしいという要望があったので、その希望に沿ったワークショップもやってみたり、今はちょうどお互いから学んでいるという状態にあります。
これからやっていこうとしているのはネットワーク形成で、その後はもっと広く人権を守る民間のネットワーク形成を持続的にできるような形にして、国連人権高等弁務官事務所の中の市民社会ネットワークのプラットフォームとうまく繋げたいと思っています。
あともう一つ大きなことで残っているのが、プロジェクトサイトの訪問です。現在調整中ですが、みんなでどこかのパートナーのプロジェクトサイトを訪問して、そのパートナーからの聞き取りだけではなく、コミュニティの人たちや、他のステークホルダー、たとえば政府の人、地方自治体の人、女性団体など、そのように広くコミュニティの裨益者の側からも話を聞いてみたいと思っています。アウトプットとしては、たいていは世界からアジアに向けて発信されるので、そうではなくアジアから世界に向けてシンポジウムをやってみようというのと、最終報告書を英語と日本語で作成しようと考えています。あとは先ほど申し上げたネットワークの形成と、たくさん集まったベストプラクティスのデータを何らかのプラットフォームでシェアすることを予定しています。
プロジェクトをやっていて最初に少し工夫したり困難があったりしたところは、多様なパートナーを入れることを元からすごく意識していたので、会話をするのが大変でした。タイ語、インドネシア語、英語、日本語で通訳を入れています。それから組織の規模が大小様々なパートナーなので、大きくてできあがっている機関は何日もかけて小さなNGOからの経験を聞きたいということが残念ながらあまりなかったり、日程調整が難しかったりしました。それから体験や経験を比較するのがすごく難しかったです。
たとえばインドネシアの教師の人たちがインドネシアの田舎でやっている教育の権利に関するイニシアティブと、フィリピンで大きな団体が台風の被災者に向けてやっている支援をどのように比べるかというのは難しいです。これは移民のところでかなり出てきたのですが、シンガポールのパートナーと日本のパートナーで移民についての話をしていると、各国の法政策による違いがあるため、移民を守るということに対する意識がだいぶ違ったり、政策によってどれだけ自発的に動けるかという点が違ったりと、比較するのが難しいということがありました。そこで、各パートナーからお話を聞いた後に、移民、災害後のレジリエンス、技術と保健、インドネシアの教育、学生と高等機関教育という五つのテーマに分けて、まずはテーマごとに集まり、そこで話と経験をシェアして、あとで全体に持ってこようということにしました。
インドネシアの教育パートナーはインドネシアの教育に関わることにしか興味がなかったりするので、サブパートナーのようなところを呼んでくることによって、もっと建設的に、より具体的で実践的な話ができるよう、テーマごとに六つのパートナーのニーズに合わせてサブパートナーを呼んできました。タイのパートナーには他の企業を呼び、インドネシアのパートナーには他のインドネシア教育の研究者を呼んできました。フィリピンのパートナーのテーマはレジリエンスなのですが、東北の震災後のレジリエンス構築について学びたいとのことだったので、日本のNGOを二つお呼びしました。それぞれテーマごとに話し合ったことにより、みんなが何か学ぶところがある形になったと思います。
アウトプットの工夫としては、報告書を出すのが必ずしも全員に合わないということです。インドのパートナーは学生主導でのソーシャルメディアをやりたいとのことで、ソーシャルメディアに動画の形でアウトプットを出すことにしました。それから一つ足した点としては、パートナーたちから自分たちは人権ということをあまり意識せずにやっていたけれども、実際どのようにしたら人権を守る形で自分たちのイニシアティブを進めていけるのかをこの機会に学びたいという希望がありました。それを11月末頃にできないかとUN-OHCHRの研修チームに打診中で、前向きに検討しているところです。今後の展開としては、11月上旬で相互学習のフェーズを終わらせて、下旬からはプロジェクトサイト訪問やネットワーク作り、そしてそれが持続するような形のプラットフォーム作りとアウトプットを出していくことができたらと思っています。
利根 ありがとうございます。キハラハントさんのプロジェクトは、アジアの共通課題に対しての相互交流と学び合いというテーマの国際助成プログラムで助成を行っています。今おっしゃったように各テーマを結びつけるような基盤として人権というキーワードが入っていて、横断的にプロジェクトを進めて、様々なテーマがまたがるところでネットワークビルディングをしていかれるのですが、それぞれ皆さんのご専門が違う、言葉が違う、言葉は国としての言語というよりも専門的な言葉でも同じ言葉を使っても意味合いが違うとか、いろいろなところでギャップが出てくるかと思います。内容については後半のディスカッションで皆さんからのご質問、場合によって私も聞きたいところが出てくるかもしれませんが、お話できればと思います。では続いて畑中さんお願いします。
畑中 私は大学で民法と医事法を研究・教育する法学系の研究者です。なぜ民法の世界からこのような医療的ケア児の話をしているかと言いますと、医療過誤訴訟が一つのきっかけです。医療過誤とは、病院の中でミスが起こったとき、最終的には裁判が行われ、医者に責任があるか、また病院は賠償を支払うべきかということが議論されるわけですが、私が修士課程を卒業した2002年頃は、医者の世界から司法、特に刑事司法に対する不信感がとても強く、医療と司法が話し合う会議に行っても、どうせ法律の人たちはわからないという医師側の空気がありました。
民事訴訟では説明義務違反を広く認めるという風潮もありました。患者が勝ったかのように見えるのですが、医療側は次に義務違反を問われないようにするために同意書がものすごく増えたり、説明の時間が長くなったりして、医療者にとっても負担が増え、患者にとってもそんなにいいことではないというような事態になりました。そこで、裁判や法律の役割とは一体なんだろう、医療者も患者も不幸になったり、のちのち苦しめるようなそんな法の役割はいけないなと思ったのが最初のきっかけです。
事後的に出てくる法律の役割ではなく、もっとみんなにとって最初にどんなことが起こるかということを予測できるような役割であったり、規制的な介入ではなくて、道筋をあらかじめ示せたらいいのではないかという、みんなにとって助かる法の役割が果たせないかなというのは今でも考えています。
もう一つのきっかけが医師でなければ医業をしてはならないという、医師法17条の問題です。それは医師による安全で専門性の高い医療を行うための規定なのですが、この規定のために困ったことが起きています。たとえば在宅療養で医者が来ない、看護師も来ないような現場で誰が見るかというと、家族が見ます。医師でなければ医療行為はできないと規定にあるにもかかわらず、素人である患者の家族が、ある日突然医療行為まがいのことをやる。これを医療的ケアと呼んで許すということを長年やってきました。
患者さんの家族は仕事を辞めて24時間痰の吸引などのケアだけの生活にどっぷりひたらなければならず、自分の生活ができないということがあります。このような形で法の縛りを越えることは許されるべきではないと思いました。実質的な監護者、ケアをする人ではなくガーディアンという意味ですが、そのこと以外になぜ患者の家族だったらできるのかという正当な説明ができていません。たとえばヘルパーさんがケアできるようにすべきなのでは、というところで厚労省のガイドラインができたりはしたのですが、子どもについては親がやるのが前提です。
助成プロジェクトのインタビューに参加してくださったのは主にお父さんとお母さんで、その方々のお子さんは喉のところに穴を開けた気管切開や、胃ろうと言って胃に穴が開いていて、そこから栄養を注入するようなケアが必要です。
プロジェクトのメンバーは、私は民法学として参加して、聖路加の看護の人、医療的ケア児を支援する会と、病児ママの会という当事者が参加しています。きっかけは病児家族当事者の人たちから、困っていることや、日常、または当事者の思いをもっと社会に知ってほしいという話を聞き、そのためにはDIPExという、実際に顔が出ている語りのホームページのデータベースとして公開したいということを聖路加の人たちに持ちかけたというものです。DIPExはオックスフォード大学の取り組みなのですが、DIPExジャパン、DIPEx◯◯といったような国際的なネットワークで、その中にいろいろなトピックがあります。私はこのDIPExの理事の人から、そういえば畑中さんこういうことに関心を持っていたからどうですかと声をかけられて、今代表になっています。
医療的ケア児というのは超未熟児や、先天的な疾患によって生まれたときから医療的ケアを日常的に必要とするような子を主に指します。もちろん交通事故などで途中から気管切開や胃ろうが必要になる子もいます。現在全国に約2万人の医療的ケア児がいると言われていますが、その数は過去10年で2倍になりました。それはお腹の中にいるときからの検査の精度が上がっていて、どういうことをしなければいけないかということがあらかじめわかってきたということと、生まれてきてからの医療をどう施すか、その医療の技術が上がってきたことによって助かる命が増えたからです。これは非常にいいことだけれども、一方で助かる命が増えたことによって、結局は誰が見るのかというところに行き着くわけです。現在は40人の方にインタビューが終了しています。インタビューは東京が中心となっていますが、できるだけ広くと考え、京都、大阪、新潟、石川、徳島、宮崎、長崎、北海道、沖縄というような地域も聞いています。
一般的にはお母さんが付きっきりでケアをして、仕事を諦めているケースが非常に多いですが、会社員を続けている方もいますし、自営業やフリーランス事業を立ち上げたという方もいらっしゃいます。インタビューでは障害を持ったときにどんな気持ちになったか、どのようにケアの手順を学んでいったかというような話、きょうだい児がいることもありますし、当然自分の生活もあるわけで、それをどのようにやりくりしたかというようなことを聞いています。今回は、医療的ケア児の当事者家族がこういうデータベースを作りたいと積極的に動いてきた経緯があり、その中でメンバーのアドバイザリーに小児科医や看護師、生命倫理の研究者、行政担当者や訪問看護の方もいて、専門性と当事者の語りをうまくミックスしてそれを公開することを目指しています。
DIPExには私たちの兄弟プロジェクトといいますか、障害を持ちながら大学生活を送った方々の語りのプロジェクトがあるのですが、こちらもトヨタ財団から助成をいただいてできたものです。このようにトピックごとに語りの方がいらして、どのような経験をされたかというお話が見られるホームページになっています。私たちのプロジェクトは2023年3月までに公開するということを目標として現在分析中です。
利根 ありがとうございました。法という共通項が出てきましたので、後ほどそこの部分で杉田さんのお考えもお聞かせいただければと思います。杉田さんは、いわゆる日本における外国人労働者のことで弁護士として実務をされていらっしゃいます。トヨタ財団が助成しているプロジェクト以外にもいろいろとされているので、助成プロジェクトのご紹介もいただきつつ他のことについてもお話いただき、杉田さんのお話が終わった後に場を開いて皆さんからの質疑応答という形で進めたいと思います。では杉田さんお願いいたします。
杉田 2019年度外国人材の受け入れと日本社会の特定課題で助成をいただき、外国人材の受け入れ制度に関する総合的プラットフォームの構築というテーマで2年のプロジェクトを予定していたのですが、新型コロナウイルスの影響があり3年に延長して実施をしている最中です。
技能実習生や、労働者として日本に来ている人を外国人労働者とを呼び、その人たちを日本だけではなく海外でという文脈で言うときは、移住労働者と言います。
外国人労働者を見たときに、技能実習制度が原因で何かが起きているのではないか、留学生として受け入れていて正面から労働者として受け入れていないというような日本の受け入れ制度の事象に問題があるのではということが言われたりします。そのような移住労働者に関する脆弱性というのは本当にホスト国の制度で決まってくるかというと、もちろん制度が生んでいる脆弱性もありながら、移住過程やその背後にある元々移住労働者が持っている脆弱性までさまざまあります。
移住労働者の過程をざっくり見てみると、たとえばベトナムを想定しますが、出身地域の貧困、仕事がないというような産業政策上の課題、スキルを身につけるような仕事がないという人的資本の開発機会が制限されていたりというようなことがあって日本に来ています。日本に来る途中の制度に残念ながらちゃんとしたコリドーができていないと、入国前の移動のために借金を背負って入国してきて、そういった借金が原因で権利が制限され、我慢を強いられ、ホスト国において労働問題などに繋がるということになります。そういった一連の過程を見ないとなかなか全体像を理解できないのではないかというのが最初の課題感です。
元々私は2年間ベトナムの大学で教員をしていて、自分の教え子たちがまさにこの送り出し機関としてベトナム側で関わるのを見られたので、リクルートの現場を含め移住労働のプロセスの全体を見やすかったということもあり、ホスト国の制度だけを見ていてもきっと変わらないだろうなというのが問題の背景として感じられたところです。技能実習生の経路がどうなっているかを見ていくと、ベトナムの中でも特に所得の少ない農村部などにリクルートの候補者がいて、ハノイやホーチミンのような都市部に移動する過程でその移動の経路が不透明だと、そこで移動する費用がかかります。
さらに都市部から日本に移動するときもそこが不透明だと費用がかかり、そういった過度の負担を抱えた状態で脆弱な立場に追いやられて日本に来るというような過程が徐々に見えてきました。これを法律家としてどのように考えるかというと、このような実際的な移動の過程があるとすると、そこに法的規制は多分あるんだろうと考えます。ベトナムの法律でももちろんリクルートに関する法律や、送り出しに関する法律などは一連の法律として整備されています。送り出し国の法律と、ホスト国日本の法律、これが接続して外国人労働者の受け入れが行われています。
リクルートのときにベトナムから海外に送ってこのような仕事には就かせてはいけませんというような移住労働者の保護に関する規程もあり、たとえば福島での除染作業はベトナムの法律ではさせられない仕事として定められています。全過程において一応レギュレーションたる法律というものはありますが、日本側でこの送り出し国の法令を知っていて、それも含めて守っていきましょうと発想している方がどれだけいるかというと、ほぼいません。それは法律を守りたくないというよりも、そもそもどういう制度でどのような規定があって何を守らなければいけないかがわからないというのが、主たる原因です。
それぞれの送り出し国ごとに違うレギュレーションがあり、それを日本との2国間協力覚書で守るという形にはなっていますが、その内容を知らされていなかったり、情報にアクセスできないような状態であったりとすると、守るのは非常に難しいです。このような課題が背景にあるということで、移住労働者が出身国の農村部から都市部、そしてまたそこからホスト国に移動する過程で、それぞれのステークホルダーのコミュニケーションが分断化されていて情報の透明性が非常に低いので、各過程で情報の非対称性が生じています。その中の一つが制度によるもので、移住労働者の脆弱性を強めてしまっています。ホスト国、たとえば日本の受け入れ企業にとってみても情報へのアクセスが制限されているので、何を守ったらいいのか、なぜ借金をしてくるのか、借金してこないようにしてもらうためにはどうしたらいいのかといったようなことを考えて実践するための基盤になる拠り所の情報がありません。それならば、調べて公開したらいいのではないかと考えました。
主要送り出し国に関する法律を横断的に調べている機関がなかったので、これを調べて情報提供をして、さらにその情報に基づいて、特に外国人労働者を受け入れる企業やそれに関与する産業組織、会社の人たちに対して、社会人向けのプログラムを提供するというのが今やっていることです。調査としてどのようなことをしてきたかですが、中国、ベトナム、フィリピン、インドネシアという送り出し主要4か国についてそれぞれの法令の調査をして、それを調査報告書と書籍の形で刊行しています。
この調査結果に基づいて、外国人雇用協議会という外国人労働者の受け入れに関与している人たちが多い団体で報告をし、どういった国からどういう経路で来るか、移住労働者の脆弱性は国ごとに違うのかというようなことを、業界団体や、私も関与するJP-MIRAIというJICAが共同事務局をやっている団体の研究会でそれぞれ社会人向けに主に報告をしています。今のところ計4回やっていて、年度内にあと2回は実施する予定です。こういった活動を通じて、送り出し国側も含めて労働移動においてそれぞれレギュレーションやルールがあり、移動の過程で移住労働者の脆弱性が生じている。ホスト国だけではなく、リクルートの起点から帰るところまでを見ないと移住労働者の脆弱性を軽減していくことにはなかなかアプローチできないのではないかという理解を、徐々にですが得ることができています。
そこで今、JP-MIRAIと協力してまず研究者のプラットフォーム化ということで国際労働移動に関する国際基準と法令の調査と書籍化に今回予算をいただいています。実施した調査を基盤にしてそれをさらに発展させるような形で、実務家、研究者を含めて約15名で国際基準法令調査研究会というものを設置して、10月20日に第1回の研究会を実施するとともに、持続可能な活動にしなければならないということで、他の助成金で今度は4か国以外の国の調査というのも進めようと外部資金の応募等をしています。そういった活動を通じて、他に外国人労働者に関する業界団体の調査研究部門などをネットワーク化して、継続して外部資金を獲得しながらこの情報を特に制度に関与している人たちに提供して、なるべく興味を持ってもらって、移住過程の全プロセスの透明度を上げていくということをやってきています。
主要4か国の制度の特徴を簡単に言うと、非常にモダンな洗練された制度になっているフィリピンと、それを参考にしたインドネシア、またどちらかというと労働者を束ねて労働者の集団を組成して、それを共産主義国に派遣していた中国と、それを模倣したと言われているベトナムという感じです。それぞれ概念も方向性も移住労働者の送り出し国で違います。
フィリピンは職業紹介1回の関与なので費用も低廉ですが、派遣や労働者供給構成をとると報酬から大体何%引かれるという発想になりやすいので、高額になります。外国人技能実習機構や入管庁が行っている訪日費用の調査でいくと、やはりフィリピンとインドネシアは費用が安いです。中国とベトナムの費用が高いのは、送り出し国の法制度基盤を見てみると、どこが原因かがわかってくるかなと思います。あと派遣や紹介と言っても全く同じ概念ではないので、日本法と送出国法とのハーモナイゼーションが必要というのは非常に感じるところです。
難しいのは、社会人向けのセミナーやシンポジウムを開催した際、私たちの活動では答えを提供するという発想ではなく、課題を知って一緒に考えてほしいと思っており、今までベトナム語であったりしたため、アクセスが難しかった法令情報に日本語でアクセスして考えるきっかけや土台を提供できればというスタンスが割と強いのですが、寄せられる声はプリンシパルやガイドラインではなくてマニュアルと答えがほしい、それをなぞったら正しい受け入れができるように、思考部分はいいから答えを提供してくれたほうが実践的なのではというものでした。でもそれでは未知の問題に対処できないと思いますし、答えがない問題を考え続けるという姿勢は研究者色が強い要素だと思いますが、それをこのようなまだ答えがない移住労働者の課題に対しては、実践者も持つべきだというようなメッセージを持っているのですが、思ったより答えがほしいという声が強いことには課題感があり、これがやってみて難しいなと思っているところです。
問われる柔軟な対応
利根 ありがとうございます。複数のテーマを横断する部分と、ひとつのテーマに特化してやっていく部分の両方が必要です。実践の方々は研究的な考え、ないしは研究者の力を借りてやっていく。研究者も、「べき論」で言ったことを現実にどう反映させていくかということは、連携して進められたらいいの、実際にはなかなかできない、ということだと思います。では、ここからはお互いに質問をしていただいて、議論をしていきましょう。
畑中 3人のプロジェクトの共通点では、マイノリティと人権というところでしょうか。法律が守られなければいけないとか、命が守られなければいけないというために教育の機会や自立の機会が奪われているというキハラハントさんのお話を聞いていて、医療的ケア児の学校生活に関することに非常にリンクすると思いました。学校で子どもが親と離れて他の子どもたちと過ごすというごく当たり前のことが、医療的ケア児ではできていません。「気管切開をしていると危ないのでバスに乗れませんからお家にいてください、私たちが週に1回行きます」というような訪問教育で、他の子どもと接する機会がありません。それは命を守るために教育の機会や自立の機会が奪われているということなので、そこは共通していると思いました。
医療的ケア児だけではなく、子育て一般であり、かつ日本のジェンダーの問題でもありますが、子育ては親の仕事、はっきり言えば母親の仕事というのは、未だに世間の常識で、これはなかなか崩すことができません。24時間不眠不休でもう限界です、誰か助けてください、と役所に行っても、「あのねお母さん、子育ては親の仕事なんですよ」と言われて突き返される。この制度を使いたいという手続きで印鑑を押すだけのために役所に行かなければならなくて、大きなバギーに乗った子どもといろんな機械を丸ごと持って行き、それでやっと印鑑を押してバスに乗って帰ってくるというようなことが一般的です。なぜ今までの常識をそのままにして変えることができないのかという問題があると思います。
この先目指したいことは、医療的ケア児を育てている母親の就労を支援することなのですが、そのためには学校や保育所で看護師のできる範囲を増やさなければなりません。親しかできないことと他の人でもできることを区分けしていくことは、必ずしも医療的ケア児のためだけではなく、高齢者はもちろん、私たちもいつどこで病気や怪我、そして障害を持つ側になるかもわからないわけですから、障害者とか障害児で区切るものではなくユニバーサルな話だろうということは感じています。医療的ケア児とその家族が安心して生活できるというのは、誰にとっても安心できるユニバーサルデザインのような発想を持っていたいと思っていて、そこはこの3人に共通して言えることなのかなと考えました。
キハラハント 教育の場という話を聞いて思い出すのはインドネシアのことです。インドネシアでは、コロナ禍のために政府の政策で一年近く学校が閉鎖されていました。オンラインで授業をするようにとジャカルタからは言われるのですが、先生たちがこの田舎にはそもそもインターネットがなくてそんな政策はまったくうまくいかないんだから、自分たちがバイクに乗って川を越え山を越え子どもたちのところに行くんだ、と始めたイニシアティブがプロジェクトのパートナーとなっています。政策の目的は教育を与えながら命も守るというものですが、その目的を共有した上で、ある程度フレキシビリティを持たせることが必要かなと思います。中央集権的に真ん中で決めてしまうと、脆弱性はなかなか汲み取れないですし、それぞれのニーズに合ったものはできません。法と政策の限界といいますか、脆弱性には対応できない、特定のニーズや状況が変わったときにすぐに柔軟に対応しにくいです。私たちのプロジェクトを通して見ていると、その部分を民間が自分たちでなんとかしてしまおうというのがあったと思います。
先生たちも最初、実は私たちは法を犯してしまっていますが、でもすでにジャーナルなどで取り上げられてしまってばれているからいいですよ、と言って公共の場に出て来てくださいました。ほかにもパプア州では先生たちが避難してしまっていなくなり、そもそも学校自体が機能しなくなっていました。そこへ今度はジャカルタにいた先生たちがそういう地域があるのは大変だということで、わざわざ自分たちが移住して学校のような教育の場を作ってしまったということもあり、それをされた先生方がサブパートナーになっています。
畑中さんと杉田さんのプロジェクトもそうですが、それぞれその国や地域の事情に合わせて目的を失わず、どのように脆弱性に柔軟に対応していくかという、それに関する使えるツール、それはデータベースやプラットフォームやベストプラクティスですが、そのようなツールを作ろうとしているのかなと興味深くうかがいました。
杉田 今おっしゃった事象に対するツールというのは意識として持っています。やはり外国人労働者の課題を扱うときに、私はダイバーシティとは言えるけどインクルージョンという言葉を自分が正面から使えるかというと、外国人労働者の課題については少し引っかかりを覚えるところがあります。それはなぜかというと、まさにツールを提供しなければいけないと思う背景の一つで、今は制度が、複雑を10回ぐらい言っても足りないくらいの複雑になっていて、それを守ることに必死です。本当は法律家が主役になるよりも、移住外国人労働者がそれぞれの幸福を追求するためにどのように円滑に働いて生活するかという中身を考えることに重きが置かれてもおかしくないはずなのですが、そこにたどり着く前にまずあるべき最低限の制度を守って受け入れるというところにかなりのリソースが取られています。各企業が送り出し国であるベトナム語やインドネシア語の法律を調べて守るのは無理なことです。
共通した課題をツールで解決し、かつ本当はその先にある個性の振れ幅が大きい人が集まるチームの中で仕事をしていくとはどういうことなのかを考えていくことも起きていいはずです。それぞれの外国人は一人ひとり異なったバックグラウンドで育っています。どこの国の人だからというよりも、育った環境が違えば個性の形成の仕方は国籍に関係なく変わってくるはずですので、振れ幅が大きくなる状態だと思います。日本では同質的で個性というものに着目がなかったので、そこに着目すると包摂性が出てくると思うのですが、今は包摂性までたどり着かないくらい表面的なとこであっぷあっぷしている状態だと感じますので、ツールで解決しなければいけないなと思います。
もうひとつ、意識として私もそうですが変わっていかなければいけないのは、この包摂性、インクルージョンと言ったときに、日本の社会が求めている外国人に対して、本当に個性をちゃんと意識した上で採用しているかというと、どちらかというとまだ日本語が話せるとか、日本人と共通している、ビジネスの社会において優秀であるといった一定の前提の留保がついていて、個性に着目しているかというとまだ怪しい部分があります。もう少し踏み込んで言うと、おそらく日本の産業組織のモデルの出世ルートに当てはまりそうな人を是としていて、その人が持っているバックグラウンドや個性が生かされるような発想での採用をしてる例は多分まれだと思います。高度人材だとよりその傾向が強く、個性をあまり重要視しない採用プロセスや産業構造がかなり受け入れを阻害してるのかもしれません。
一方で新卒一括採用方式だとキャリアがなくても働けるので、そういった面では世界でも一部競争力があって、一部競争力がないという混合体だと思います。本当は制度を超えた受け入れや権利の擁護にたどりつかなくてはいけない中、まだその前提段階で四苦八苦しているので、外国人雇用に関してはツールの提供が必要なのかなと感じます。
畑中 制度を守らないといけなくて、柔軟には運用できないことの苦しみは全部に共通しているというのはすごくよくわかります。
たとえば日本の介護の分野だと言葉が難しく、床ずれを褥瘡と言いますが、とにかく漢字が難しくて外国人労働者はこのような漢字のテストがあると受かりにくいということも言われます。それは日本人にとってもそんなにいいことではないので、もっとわかりやすい言葉に教科書を改訂したらいいのではとも思うのですが、従来の方法を変えることにはあまりいい顔をされなくて、この程度もわからない人が介護の仕事に就くなんて、みたいなところもあるのかなと思ったりします。
柔軟性というところで医療的ケア児の話に戻ると、学校の中で何ができるかというのがすごく難しくて、せっかく看護師さんが対応できる範囲が増えたり、教員でも研修を受ければある一定のケアはできるとされているのですが、看護師さんが教員に対してものすごく厳しくて場合があります。たとえば処置の際少しでも泡が入ったら、もうこの先生はケアに対して合格出せないからしばらくお母さんが付き添ってきてくださいということになって半年くらい付き添うと。そんなこんなの間に学年が変わり担任の先生も変わってまた一からやり直しというようなことがあります。子どもが成長すれば管の大きさが変わったりもしますし、ケアの内容が少し変わるともう一度医師に指示書を出してもらって、一から担任の先生の教育をしなければならず、看護師さんが合格と言うまではお母さんが付き添うことになってしまい、全く柔軟ではないという事態が生じます。お母さんが、家ではもっと大まかにやっているとか、ちょっとくらい管が抜けてもすぐには生命に関わらないので大丈夫ですと言っても、ダメなものはダメと言われてしまいます。
なぜそのようなことになるのか考えると、最後は法的責任と言われます。何があっても法的責任は絶対に問われませんなんて誰にも言えないですし、国としても免責条項のようなものを入れることはしません。柔軟に運用されるとみんながとても助かるといった、ハッピーストーリーをしかるべきところが打ち出していくような方法はないのかなということは考えています。それをあるモデル地域のようなところで運用したらうまくいったから、似たようなとこでやってみようということで日本全国に広がっていくかもしれない、そのような点ではキハラハントさんがされているさまざまな国を比較しながら良いところをみんなで学んでいこうという部分に似ているのかなと感じました。
キハラハント 柔軟に対応するというのは現場が柔軟に対応してねというのとともに、リソースを変化させていかなければいけないというのを私は感じています。たとえば医療の発達によって助かる命が増えているので、ケアする人も本当は増えないといけないということや、学校に行かせるのであれば誰が面倒を見るのかということになってくると、従来の法と政策があって、それに基づいて現場ではこうやってきたという流れがあるのですが、ニーズや状況が変わったりするときにそれを現場の判断で柔軟にやりなさいというのには、やはり限界があります。介護される側にも多様な人たちが出てくるので、柔軟にさせてくれるためには介護する側の人数も増えなければなりません。さまざまなバックグラウンドやニーズに応えられるような、それを許す政策ができないといけないんだろうなと思います。
私のプロジェクトの中で、これが例として良いかわかりませんが、難民の支援をしている学生団体があるのですが、大学に登録している学生団体は寄付を受けてはいけないとか、大学の教室を使って活動する場合にはお金を集めてはいけないとか、いろいろな規制が出てきてしまいます。この場合は国の法律とは違って大学の規則ですが、ニーズや現状が変わっていくのに中央から現場への聞き取りはなかなかスピードが遅いな、というのをいろいろなところで感じました。
杉田 柔軟にということは私が見ている分野でも感じます。みんなの負荷が少なくなっていくようなことを考えていかなければならないんだろうなと思うときに、どうしたら柔軟にしようという発想に持っていけるかを考えると、柔軟の反対側にあるのは、何かあったときに責任を問われることを常に意識するようになっているというところがありそうだなと感じています。
それに対する今の回答は、全体的な理解はなかったとしても、一つひとつの項目を守っていれば一応守ったことになるというもので、レギュレーションを細かく作ってそれを一つずつ守ることにより、最終的な利益や権利を保護することになる。
外国人の受け入れ制度もまさにそれで、移住労働者の権利擁護について、言うことを聞かなかったら帰国させるよみたいな移住労働者の弱さを使わせないというプリンシパルのようなことを全ての場面で考えることができれば、細かいレギュレーションは実はなくてもできるはずなのです。そういった発想ではなく本質的な理解はとりあえず置いておいて、細かいレギュレーションを作る規制構造になっている。関与する人に権利擁護などについて本質的な理解をしなければならないということを認識していただいて、それに基づいて活動していれば免責されるというような方向にもっていこうとすると、規制官庁側と結構やり合う必要がありそうだなと思います。
当事者と規制する側双方をそこまで変えていけるかという課題感は強くあります。個人的には採用する側に、細かいレギュレーションは置いておいて移住労働者ならその脆弱性を使わない、使わせない、そこの中核部分を理解してほしいと思っています。言うことを聞かないと帰国させるよというようなことを暗に言おうとしたときに、それってフェアじゃないですよねということを立ち止まって考えてほしいです。このようなことが積み重なっていけば、レギュレーションは段々緩和されるのかなと思うのですが、教育現場の先生に本質的な理解をしてもらって先生はそれに基づいて活動して、そのうえで事故が起きたときに免責させるというところまでもっていくには、詰めければいけないものが多そうで、法律家の役割がありそうだなと思いました。
民間と国の役割
畑中 日本は最後は国が守ってくれるみたいな意識がどこかにあり、医療的ケア児のお母さんたちも国に対していろいろ思うことはありながらも、やはり最後は国が政策で自分たちを支援するような法律を作ってほしい、自治体での制度を作ってほしいと期待しているところはあると思います。その中で、キハラハントさんはあえて民間セクターでプロジェクトをされているのはどのような意味があるのでしょうか。
キハラハント なぜあえて民間を見ているかというと、民間セクターに人権を守る責任があると言っているのではなく、実際に国家が守りきれなかったところを実は民間の団体、個人、企業が助ける役割をわりと自主的に負っているからです。特にコロナのような世界的にみんなにとって緊急性の高いことが起こったときに、誰に責任があるかということではなく、できる人ができるところを埋めていこうというたくさんのイニシアティブがでてきました。そのイニシアティブをもっと積極的に認めて、この役割は民間でもできるけれども、ここはやはり国でないとできないという区別が必要かなと思います。
民間はアドボカシーはできますが、法律を変えることはできません。司法も法の解釈をし、被害者の人を救済するような役割はできますが、司法そのものが国家なので、国家は人権を守っている枠組みの中にどのように民間が入り込んで、実は逆を埋めているのかということを可視化して、どの辺はどんなふうにできるのかということを見ていくといいと思います。民間は国が何をやっていないかを知っていますが、国は民間が何をやっているかは知りませんので、可視化してお互いに学び合うことが必要です。パートナーたちはそれぞれとてもローカルですが、なぜ国連とわざわざ繋ぐかというと、国連とは国家が集まる場所なので、そこで人権を守る枠組みでうまくいっていないところがあり、民間がこれだけ頑張ってそのギャップを埋めていて、こういう問題に直面しているというのを伝えていきたいという目的です。国連でいう民間とは主にNGOや市民団体なのですが、それだけではなく企業や個人、農協など様々な例を調べてみたい、そのような民間の見方をしています。
畑中 ありがとうございます。おっしゃることがよくわかりました。国が見えていないところは民間のNPOが活躍するというのは、医療的ケア児のプロジェクトでいうときょうだい児支援があります。障害のある子本人に対しては医療費、介護費、バギーを作るお金なども出ますし、ヘルパーさんもいます。あるお母さんの語りで、「妹にはヘルパーさんが来るけど僕には?」と上の子が言ってきたという話がありました。お母さんは医療的ケアの必要な子ばかりを見ざるを得ず、きょうだい児のことはほとんど構ってあげられない悩みを抱えています。
その方は、大学のボランティアサークルできょうだい児支援をしてくれるところを積極的に頼り、お兄ちゃんのわがままを何でも聞いてあげてくださいとお願いしたということでした。そういった国があえてお金を投入しないところであったり、しなくてもいいと思っていたりするところ、もしくはそこまではできないというところに対しての民間力というのはすごくあるなということは感じます。
国ということで杉田さんにもお伺いしたいのですが、国は規制をかけたりある一定の制度を運用するためにお金を出すことはしますが、どういう人材がいて、当事者に対してどうマッチングするかというところまではみてくれないというのが、少なくとも医療的ケアの話では非常に大きな問題です。
たとえば、訪問看護師を派遣する仕組みはあってお金は出るのですが、訪問看護師を見つけてくるのはお母さんがしなければなりません。ですがお母さんは毎日子どもの面倒を見るのに忙しく、ネットサーフィンをする時間なんてありません。あとは医療的ケア児支援法が施行されたということもあり、各自治体で学校での医療的ケア児受け入れのために送迎をしますとか、学校の中に看護師さんを置きますというところにお金をつけることはしました。ですが、登校のために必要な介護タクシーが自治体の中でどこにいるのかを探し、朝7時半とか8時に迎えにきてくれる看護師を利用者自身が手配しなければなりません。看護師だって子育て世代の人が多いのに、自分の子どもをほったらかしてわざわざ毎朝来てくれる人なんてどうやって見つけたらいいんですかという、結局不完全な国の支援になってしまっているというのがいろいろなところで聞かれます。この人材を結び付けるマッチングアプリ的なことについては誰がやるのでしょうか、またどういうことができるでしょうか。
杉田 畑中さんがおっしゃったのと同じような現象は外国人の受け入れでも起きていて、全国に多言語相談窓口というものが法務省の補助金で設立されていますが、そこに行けば問題が全て解決するのかというと、必ずしもそうではありません。昔からNGOやNPOとして外国人に限らずマイノリティの方の生活支援をしていた経験のある自治体や、兵庫のように震災のときに連帯していたネットワークを生かして今は外国人の支援をしているような地域はもちろんあるのですが、急に技能実習生が増えているけれどもそういった人のニーズがどこにあるのか、言語的な課題を解決できる人がその場にすぐいるかというと、制度はあってもそれを担う人がいないというのは全国的に起きている現象だと思います。それに対して、速効性のある解決策があるわけではありません。
先ほどキハラハントさんのお話にもありましたが、民間の公的な役割があまり可視化されていないと思うので、もしかしたらマッチングというところも制度の助成に加え、ある程度地域横断的に県をいくつかまたぐようなNPOを作って制度の運用まで委託するようなお金をつけてくれるようなことが必要なんだろうと思います。外国人労働者の受け入れについては国に専用の官庁があるわけではないので、民間でずっと受け入れをしてきた人に広く活躍してもらわないと受けきれない状態だと思いますし、日本にはマクリーン判決があるので、在留制度の枠の中でしか人権が保障されません。そうすると国が持っている出入国のガバナンス、もう少し砕いて言うと、どういう在留資格で受け入れますよという条件が人権に優先するゆえに、家族帯同を制限できたり、在留の上限を制限できたりします。
ほかにも転職を制限できたりもしてしまいます。それは出入国のガバナンスが人権保障よりも優先するからです。外国人の人権と出入国のガバナンスがいがみ合って前に進まない状態の中で、たとえば法律上はそういう制限を課せるかもしれないけれど、移住労働者の費用負担を減らしたりもっと人権を守るようなことを民間企業が自らの基準で出入国のガバナンスで制限されているものを超えて尊重するということは、やはり民間でないとできないと思います。この辺りは医療の分野も似ているのではないでしょうか。ですから課題は、その部分を担ってくれる民間の人を可視化すること、またそのような人や組織を持続可能に育ていくためにどうしたらよいかということになると思います。
実践と研究のサイクルを回す
利根 民間の現場でのことが先行し、それに必要な法制度はあとからついてくることが多いと思います。昨今の社会の急激な変化にあった制度をスピード感をもって作るのは難しいでしょうから、原則を決めてから柔軟に変更していくような対応が必要になってくるんだろうなと感じました。今のディスカッションを鼎談のテーマに絡めてまとめると、法制度や国の立場の部分が、研究的なところにかかってくるのかなという感じがしてきました。現場で実際にケアを提供している方は、現場での課題をアドボカシー的なことをして政策提言をしたり、制度に反映させていくためにどうしたらよいかというような専門性や、そのための時間もないので、そこに研究者を含めて専門家の役割があると思います。
現場で起こっていることを可視化して、制度の変更に繋げていくところで皆さんが実際にどういったことをされているのか、自身のご経験もしくは当事者や実践の方々から聞かれる言葉としてどういったものがありますか。
畑中 私たちのプロジェクトの最終形は問題を可視化することです。医療的ケア児を見たことがないという人が多い世の中で、語りを通して「医療的ケア児を抱える家族が近くにいますよ。幸せなこともいっぱいあり、それが一つの子育てなんです」という情報ソースを作るのが一つの仕事です。大学の教材、または看護師や介護士の教材として使用することで人材育成に役立てるようなことは期待していますが、研究からどのように政策に繋がっているのか実感が持てないですし、遠いなと感じています。
来年子どもが就学したら私は今いる会社を辞めないといけないので、データベースなんてのんびりしていることには参加できませんと言われたこともあります。語りを集めて可視化することの意義はきっとあると思って活動していますが、迂遠だなと思うこともあります。
当事者にお話を聞いてきた中では、自分たちの声を自治体の政治家に届けたり、行政に子どもを連れて行き、時には担当者に子どもを抱っこさせて、子どもの重みを感じてもらいながら今の自分に必要なことを訴えたという話もありました。当事者がどれだけ行動をし、実際に各自治体や行政の担当者を動かし、具体的な仕組みができたかというお話もたくさんありました。そのような例を紹介することで、ほかの自治体でも動いてみようと思ってもらえたらということを考えながら活動しています。
プロジェクトで難しいと感じたことを言いそびれてしまったのですが、このプロジェクトは家族の語りなので、夫婦の関係や、親や周りから何と言われたかというような話が多いです。社会にある障害者差別やジェンダーの問題が背景にあるけれども、実際に語られる言葉だと家族の悪口のようになってしまいます。たとえば次の子を産もうと思ったけど夫の親から反対されましたということや、夫は何もしてくれませんみたいな家族の悪口のとして取り上げられてしまうことが懸念されています。そこをどうしたらもっと大きな枠組みである社会の問題なんだと示すことができるかということは日々悩みつつ配慮しながらやっています。
もう一つ最後に申し上げたいのは、医療の世界だけではありませんが、政策提言をするときにボタンの押し間違いはしないようにということは政策担当者から言われています。行政は本当に各部署で細分化されていて、似たような名前でもやっていることは全然違うということがよくあります。本当に必要なことは担当部署に言わないといけないのであって、なんとなく似ているからといってそちらの部署にこういうことをやってほしいと言っても、わかりました承ります、で終わりになってしまいますので、適切なボタンを押すということは気をつけていかなければいけないと思っています。
杉田 研究者の役割ということですが、自分自身を研究者だと言い切るほど自信がないのですが、研究者はまず自分で課題を設定でき、それについて先行研究をリサーチして、その課題に関する素材を集めて、考えて検討して、最後にアウトプットとして論文にまとめるというこの一連のサイクルを、未知の課題に常に回し続けられる、このスキルセットはすごいなと思います。まさに外国人労働者や移住労働者の課題は答えが出ていない部分がまだ多くて、未知の課題に対して自ら課題を設定して、先行研究事象としてペーパーも現場も調べて、考えてアウトプットするサイクルを回す人が、特に未知のエマージングな課題であればあるほど必要なんだろうなと思います。
私のような実務家だけだと、目の前の現場で今この外国人が人権侵害をされているなら裁判をして助けなくては、となってしまいますが、40万人実習生が来ている中の1人はそうかもしれないけれど全体はどうでしょう、たとえば技能実習制度で70%実習実施者に法令違反があるならばやはり技能実習制度はひどいと見るのか、日本全体の労働者を見てみたら同じ70%でしたということになれば、技能実習制度と実は因果関係はないのではということを課題設定する。目の前の一つのエピソードではなく、全体を冷静に分析したうえで考えてアウトプットできるというのは、研究者の強みだと思います。
エマージングな事象で答えがなくてずっと考えないといけない課題だからこそ、研究者として調べるというよりも課題と知的に格闘すると言いますか、考え続ける、調べ続ける役割としての研究者というのは絶対必要で、そのアウトプットを知っていると、例えば私のいるところやJP-MIRAIのJICA共同事務局をやっているところに何人か同じような関心のある研究者の人が集まってくると、公開研究会みたいな形で事象を調べながらこういう課題もあるのでアドボカシー的に一緒に考えてみませんかということができるので、そういった意味で実践的な課題なのですが、研究者のスキルセットを持った人が現場も含めて見るというのはとても重要ですし、課題を進める役割をそういう人が担うのかなと思います。
キハラハント 実践の知的基盤について考えたところ、四つ言えるかなと思います。一つ目が連携によってできることは問題の可視化です。畑中さんのお話でいうときょうだい児支援、そこに問題があるということが見えていないので、それを見えるようにする。二つ目が杉田さんの外国人労働者のお話で、ツールの可視化、ツールの提供というのができるかなと思っています。たとえば外国人労働者のスキルと受け入れ企業をマッチングさせるようなことは他の国では結構やられていて、カナダには企業が難民を探しに行くようなプログラムがあったりします。難民申請がまだの人でも探しに行ける仕組みです。
今回のプロジェクトではタイの企業のイニシアティブをいくつか追ったのですが、その中に病室マッチングみたいなのがありました。コロナに感染してこのくらいの症状で困っている人がいるというのと、どこの病院に病室がいくつ空いていて、このくらいの症状の人なら受け入れられるというのをマッチさせるものです。これは企業が作ったものですが、そんなツールを作ったのなら政府が買い取って使いましょう、となりました。そのようなツールは割と研究より実践の方から提供ができるのかなと思います。
三つ目は国と民間の行き来です。その架け橋が日本はものすごく少なくて、行ったり来たりできません。1回国側に入った人がなかなか企業に出てこないし、逆もありません。これができるようになれば、行き来するような立場としての実務でもある研究ができるのではと思います。先ほどの病室マッチングアプリができてから政府が買い取るまでの間は1週間くらいのスピードでしたが、日本は企業が作った技術に対しての垣根が高いというか、民間がやっていることだから政府は買い取ったりしない、となってしまいます。同じことでも国際機関から発信されると、日本政府もこれは聞かないといけないというようになったりするので、何らかの国際機関をかませることによってこの垣根は低くすることができるのではないかと思います。
四つ目は見方を変更させるようなことができるのではないかなと思っています。今日は通して脆弱性についてお話してきましたが、たとえば外国人労働者たちの脆弱性に焦点を当てるあまりに、その人たちのレジリエンスが政府からは見えていなかったりします。今回の私たちのプロジェクトの中では東北のパートナーがその視点を持ってきてくれました。いつも脆弱で裨益者でというのではうまくいかない、もっと自分たちの方から発信して自分たちが政策を作るのに参加していくんだ、コミュニティのレジリエンスを自分たちで上げていくんだというようなことが出てきたりするので、政策の視点を変更させるようなことで何かできることがあるのかなと思いました。
利根 今日のテーマは研究と実践という切り口ですが、現場の方の言うことが絶対ということはないとは思います。そうではないと研究者の方がきちんと提示する、先ほどの技能実習の話などは典型として一つ言われるかもしれません。声の大きな方達の当事者性がフォーカスされすぎると、そうではない当事者にとっては異なったフォーカスが当たっていることになりえます。では、最後に一言ずついただけますか。
杉田 研究と実践を車に例えるとタイヤとエンジンのような形で、実践的な事象と研究的な鳥瞰して考える二つのサイクルがうまく回っていくと、課題の可視化と考える材料がより回っていくでしょうし、この二つの相互関係は大切なんだろうなと思いました。私は半分弁護士で半分研究者のような経歴ですが、まだしばらくは半々で頑張りたいなと自分の目標として考えながらお話を伺いました。今日はありがとうございました。
畑中 お二方のプロジェクトは国際的な大きなプロジェクトで、私のプロジェクトで取り上げている家族という最小単位の社会の話がどうやってリンクするのかなと心配ではあったのですが、声の出せない弱者の生活に焦点を当てるとか、法律や平等、公正さの名のもとに個人の尊厳がないがしろにされている状況がとても共通していました。私はインタビュイーの話を聞いていると、一緒に憤ってしまうようなところがあるのですが、その気持ちをそれぞれのプロジェクトでも持っておられることが感じられて、とても有意義な時間でした。
キハラハント 私も元々は実務者で、研究のテーマも実務で感じた、まさに今畑中さんがおっしゃった憤り、私の場合は国連における性的暴力の話として現場で憤ったことを、一体どんな法的枠組みがあるのかという研究をしているので、研究と実践の間を行ったり来たりする二つのプロジェクトを知ることができてとても良かったと思います。
最初のキャリアを選ぶときに、何かを変えたい人、つまり実務系の人と、それを深く調査研究する人、その二種類があると言われて、私は世界のさまざまな不公平なことを変えたいと思って実務を選んだのですが、そのうちにやはり深く研究調査をしていくこともとても大事だなと思って研究の方に入ってきたので、その二つが乖離しているものではなく行ったり来たりできるもの、そしてときには分けなくてもいい、両方のサイクルをうまく回すこと、そこが大きな鍵になるのではとお話を聞いていて思いました。
利根 トヨタ財団でもプログラムという形で分けてさまざまな助成をしています。研究助成プログラムもありますが、実践を強調している部分もあり、やはり両軸が必要ということで、このような鼎談の場も設けさせていただきました。助成先の皆さんが積み上げられてきたものは非常に大きなアセットですが、それら知見を少しずつ繋ぎ、社会に浸透させていくのは財団の仕事の一つかなと思っています。本日はどうもありがとうございました。
公益財団法人トヨタ財団 広報誌JOINT No.41掲載(加筆web版)
発行日:2023年1月24日